鞆城

別名-  付近住所 広島県福山市鞆町後地536-1 現在 鞆の浦歴史民族資料館
2009/9/12 案内板アリ 日本城郭大系


毛利氏

福島氏

水野氏
 ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用した壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が修築した。慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に「岸上新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中だったことが知られる。
 元和元年(1615年)の一国一城令に先立って廃城となり、正則の後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以後は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた。

鞆城三の丸の石垣
 鞆城は、戦国時代の16世紀後半に毛利氏によって築かれ、江戸時代の17世紀前半に福島正則によって拡張されました。鞆城は、本丸・二の丸・三の丸と階郭式になっています。道路をはさんで北側、地蔵院の石垣が二の丸の石垣です。
 この三の丸の石垣は、平成4年4月、病院の建築工事中に発見され、取り除かなければならない部分のみを移築しました。この石垣には刻印があり、本丸石垣の刻印と同一です。
 石垣のラインは、ここから南側23mの位置に東西一直線に埋まっています。当時は、このラインが海岸線でした。
 鞆城が軍船を係留できる海城であったことを証明できる貴重な遺構です。

      

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